diversity of possibilities

書きたいことを、書きたいように書いていきます。仕事のアウトプットもあれば、個人的な趣味・嗜好に関するものも。

中庸が大事である

ちょっと前に、ふと考えていたこと。

「中庸」の大事さについて。もう一つは、「すべては表裏一体」ということ。

まあ、中庸の正確な意味はそれぞれで調べてもらうとして、ここで言いたいのは”バランスの取れた状態”といったイメージで話してる。

思想的にも、学力的にも、経済的にも、地域格差にも極端と言える状態、気持ち、志向を持った人が多いような気がしてならない。
「極端などちら」もある程度知り、言いたいことを理解した上で、バランスを取ろうとすることの重要性は増していくんじゃないか。
もちろん、両極端を突き詰めていけば、それはそれですごいしそういう人はカリスマ性を発揮すると思う。歴史的にもそういう人がリーダーシップを取るケースは多々あると思う。が、他方で中庸を突き詰めても、実は多分目立たないし、ともすれば「平凡」に埋もれるのではないか。

「平凡」を嫌い、両極端を志向するというパターンはあり得るんじゃなかろうかと思うが、うーんどうだろう。単にブレークスルーデキる人、ドロップアウトデキる人なのか。わかりません。

ただ、個人的にはやはり「中庸」を目指したい。


そして、表裏一体。右でも左でも、都市でも田舎でも、勝ち組でも負け組でも、高学歴でも中卒・ニートでも、見方を変えれば実は立場が大きく変えられるんじゃないか。なんて言うか、二項対立という論点整理が違うんじゃないかと思うわけ(ここでも中庸的)。
ある人物Aが居て、傍目には幸せそうに見えたとして、本人が本当にそうか?と言えば必ずしもそうではない、ということは誰しも経験があると思う。これは極端な例だけど。

人当たりがいいと言われる人は、本当に人当たりがいいのか、それとも八方美人なのか。冷たい人言われる人は、本当は相手を真剣に思って厳しいことを言うのか。よく言われる話だけど、長所短所は表裏一体。


ここで言いたいのは、短所も捉えようで長所になる、なんていういいコトではなくて、どれだけやっても決して相手に届かないこともある、ということを知っておくことが大事なんじゃないか、ということ。”裏”なんてないのに、相手先からはどうも”裏”があるんじゃないか?と勘ぐられることもあるでしょう。そんな時、相手を責めるでもなく、まして自分の伝え方が悪いと自らを責めるでもなく、「そういうこともあろうて」と思えることが大事だと思います。
それに、この人こんな良い人なのに、なんでみんなから反感買うんだろう?みたいなことも同じことかと。

僕自身がこんな考え方だからと言って、物わかりが良い、諦めが良い(早い)、ということはなくって、必要と思えばかなりシツコク、長期にわたって食い下がるので、消極的・受動的な人間の出来上がり、ということはない(笑)

もう一点、いつもいつもこのようなことを考えて人と話しているわけでは決してありません。